昭和四十七年八月二十六日 朝の御理解
御理解 第六十八節「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うては          ならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにあり          がたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にう          そを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはお          よばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をした          り節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」 お道の信心で修行というならば、最高の修行は私は朝参りだと思う。朝参りを行ずるという事。これがもう最高の修行だと。
 だから本当に神参りをするる、雨が降るから、風が吹くからというような事で、例えばおろそかになったら、もうお道の信心で言う一番素晴らしい表行が欠く事になります。
 今朝も私、こちらへ出て参ります時、直子だけが出て来てまして幹三郎が出て来ておりません。家内が起こしたけれども、もう昨日が○少のあれでもう、どんなに起こしても起きないから、それでもう時間になりましたから、直子と二人でこちらへ出て来とりましたら、幹三郎が出て参りました。
 もうそんなら、よかよか、寝かしておけと、これはまあ親の情ですよね。夕べも遅かったからもう起こすなと。けれども、私は本人がそこんところの自覚にたって、例えば本部から帰って参りましてからでも、まあ本部ではゆっくり出来んから、家に帰った時なっとん、ゆっくりやろうといったような気持を捨てて帰った。
 その翌日から、父親と一緒に朝の奉仕をさせて頂こうというその精神がね、有難いと思うし、それが神様が受けてくださる修行だと思いますから、これはちょっと酷ですけれども、そんならもうしばらくしてから、起こせと家内に申しましておりましたら間もなく起きて参りましたから、まあ自分で起きてきたのじゃないでしょうか。
 そういう時に、もうよかよか、夕べあげん遅かって疲れとるだろうからと言うたらね、そこんところを私は心を鬼にするという事は、そんな事じゃないかと思うですね 本人がそれを意欲してなかったら駄目ですねぇ。無理に強引に起こしたり、どうという事はありゃしません。私の方の子供達の場合でも、どの子でも例えば朝の御祈念に出て来ておるまいがどうしょうが、遅うなろうが何とも思いやしません。
 けれども本人が、これは私に別に言うたわけでもお届けしたわけでもありませんけれども、それをひとつ一途に思いこんでおるようなふうに見えますから、一日でもそれを欠いたた惜しいと思うです。その人の為に。
 いわゆる雨が降るから、風が吹くからまあきつかろうけれども日頃の信心が出来ておるのに、雨が降るから、風が吹くからと言うて怠ったんでは、その修行がいうなら影が薄うなるというか、いうならしだごだになる。
 これはもう絶対しだごだになるという事はね、おかげがしだごだになるです。これは間違いがない。だからそこにもう何かです、心にかけさせてもらう、何か心にやりぬかせて頂くという、これはそんなら朝参りというだけでなくていいでしょうけれども、これだけはというものをです、私は頂きぬかせて頂くという事が、神様と私共の間にまあ細々ながらでもおかげのル-トというもので出来るんだと思うです。そこからおかげが交流する。
 どんなに素晴らしい桜の花のようなパ-ッとしたような信心が出来ても、後、パッと散ってしまうような信心では、やっぱそれだけのものです。
 そういうところをです、今日は朝参りをするに雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてもならんというような事をね、これは朝参りという事だけではなくて、何か心にかけてこれだけはというような生き方をしておる人達は、これを本当に行じぬかなければならない。
 昨日も婦人会の後がいつものように、研修会でございました。もうお終いにせにゃという時間に、文男先生、高橋さん、高柴さんと、二、三人みえられましたので、又それから新たな信心共励をさせて頂いた事ですけれども、今までこういうような事で信心共励をしてきたと言うて、そのあらかじめのところを、光橋先生に発表してもらった。そして文男先生の話を聞こうという事になった。
 文男さんがこういう事を言ってるですね。私はどうにも不思議でたまらん事は、合楽の方達がおかげを頂きなさらんと、まあおかげ頂いとりますから、こうして信心も出来ているのですけれども、その何か私から見るとおかげ頂いとんなさらん感じのする人が多いとこういうわけです。
 それがどこにあるだろうかと。私は皆さんのように朝参りも出来ませんし、夜参りも出来ません。まあいうなら月次祭、同時に何かの会合とか、信心共励とか、又は地方の信心共励会にはもう、こことこことと決めたらもうこの人ばっかりは絶対です。 田主丸の土肥ですか何ケ所か決めてやってますが、これはもう永年の事ですけれども、どんな事があってもやって来ます。
 例えばここへ来たならば、ここへ泊まるならば必ず私の足を揉ませて頂くと決めているんです。だからそれは夜中であろうが、ここへ着いたら部屋にやって来る。これだけはその貫くわけです。
 それでこれはまあ、私の信心ですけれどもと言うて、例えばそんなら、もう腹を立てんと決めたらそれを貫いておるです。ここんところがね、その文男先生が信心の素晴らしいところなのですけれども、やはり貫くところからですね、いわゆるよどみなくおかげが交流するわけですねぇ。
 だからその中でも、一番素晴らしい修行というのは、今日私は朝参りと申しました 金光教でこの朝参りをぬいたら、私は本当の金光様の信心の有難さを日々頂く事は出来ないと思うくらいです。
 それこそ朝のひとときというものはです、そんなら昼からの時間のまあ実を言うたら、そうして形で表す事は出来ないでしょうけれども、私は皆んなに言うのですけれども、朝の一時間というものは、午後の三時間がたあるよと私が申します。
 だから昼寝したっちゃよかけん朝参りするという生き方はね、それは大変ひとつの方法としてよい事なんだ。
 でないと、その朝の清々しさというものが、もうその日一日の原動力ともなるようなものをね、朝の御祈念には感ずるだけではなくて、神様が今日私が申します、そのひとつの形の行ですね、表行という事で受けて下さるわけです。
 昨日はその表行という事について、表行と心行が一つになって、はじめてよいものが生まれるというようなテ-マで昨日は信心の研修をさせて頂いたんです。
 そんなら表行とは、どういう事なのか、心行とはどうい事なのか、これは例えて昨日のその研修会の時に頂いた事ですけれども、文男先生が一生懸命お話をしとりました。そして、自分は皆さんのように朝参り的信心は出来んけれども、家でこの事だけは頂き続けておる。いうなら、教えを本気で行じておる。そこに私が日々頂いておる有難さとか、又それにつながるおかげというものがあるのじゃなかろうかと、自分でも言っております。
 そしたら、私、御心眼に、片岡知恵蔵と頂きました。ははあ、今文男さんが言っておるのは、片一方の心行の意味に於いて出来ている、心行は女性的なものだといわれておる。昨日頂いたんです。
 いうなら女性的な信心、ですから産みなす事の働きがあるんです。例えばね、もう本当に不平不足は絶対言わんぞ、腹はもう絶対立てんぞという、これはね、はじめの間は辛抱がいりますけれども、体験が生まれて来る。産みなされてくる。ですから、もうその事が楽しゅうなってくるんですよ。
 文男さんあたりの場合、そういうものを感ずるですね。腹を立てん人が腹立てにゃおられんごたる時に、ニャッとしよるような感じです。これがおかげ頂く元といったような頂き方をしよるようです。
 だから皆さん、それが出来なさらんところが、例えば本当のおかげにつながらんのじゃないだろうかといったような事をっている。だから徹しなければいけない、この事に。私は皆さんのような信心は出来んけれども、いうなら、これに徹しておるという発表をしておりましたらね、片岡千恵蔵と頂いた。
 片岡という事は半分だという意味だと思うです。岡という事はまあ修行という事でしょう。山を修行というのですから・・・・半分の修行、だからこれにもし、あと半分の修行、朝参り的信心が出来たら、もうこれは絶対お徳を受けるでしょうね。
 千恵蔵とは、千の恵の蔵と書いてあるでしょう。だからこれは、文男先生自身がです、そこに何か一心発起をして何か朝参りでもしなければおられないものが出来た時から、これははじまる事であって、それをすすめたからといって出来るもんじゃないですよね。
 けどこの事は、そういう意味の事は話しましたけれども、この片岡千恵蔵という事は話しませんでしたけれどね、頂いたのはそう頂いた。
 折角一生懸命お話しとるのに、あんたが信心は半分ばいというわけにもいきませんからね。皆さんの前。ですから例えば、そんなら皆さんが朝参りだけは一生懸命出来ておるという事は、お道の信心で今日、私はもう素晴らしい表行だと思うです。
 しかも雨が降るから、風が吹くからというようなところをいとわずに、いやそこを辛抱しぬいてです、出来るならばこれは表行。だからこれとてもやはり片岡千恵蔵です。これに徹するならば絶対です。
 それにそんなら文男先生が言うところの、いうならば、朝参りを表行とするならば心行、それこそ不平も言わん、不足も言わん、腹も立てんというような頂き方というものが徹せられる時にです、いわゆるここで言われておるところの、成り行きを大事にしておる姿なのです。
 その事を御事柄として受けておるから腹も立たんのです。だから例え、そんなら月の内どうでしょうか、合楽というて向こうてくるのがまあ十日ぐらいのもんでしょうねぇ、文男先生の場合は、いうなら三分の一しか、そんなら皆さんにするなら、皆さんの三分の一しか表行は出来てないわけです。
 大体普通で言う表行は、この人は非常にきく人です、例えば断食をするとかね、水行をするとか、ああいう事は若い時から、非常に文男先生はやりました。
 だから今日はそういう意味を表行と言わずに、朝参りを表行と、今日は言っとります。だからその朝参りがいよいよ有難いものになり、尊いもの、いわゆる楽しいものになってくる時にもう、片岡千恵蔵で半分のいわゆるおかげを受ける、受けものが出来たと言うてもいいでしょう。まあ出来よるという事でしょう。
 それには例えば、やはり周囲の者と言うかそれが、幹三郎の事を今日家内に申しましたように、成程夕べ疲れておる事はよくわかっている。遅うまであと片付けの御用をさせて頂いておったのですから、だから今日はもうよかよか起こすなと一日ぐらいよかくさと、これは信心にはならんのです。だから、だから私は本当にここんところをね、ここの修行生達をはじめ、皆さんにもここんところの節度をです、本当に決め込んで頂きたいと思うですね。
 そこでそんならもう出来ない時には、お詫びのしるしにといったような信心が出来なければいけない事になるわけなんです。
 昨日研修会の半ばで頂いた事ですけれども、最近は信仰的情操という事を言われます。宗教的情操なです。というものを金光教でいう、情操というのはどういうところから生まれてくる心の状態を、一番最高の情操というかと言うとね、天地の大恩を感得させてもらうという事です。
 天地の大恩をわからせてもらうという事です。そこから金光教的いわゆる情操なんです。素晴らしいですね。もう甘木の初代なんかは、天地の御恩徳を説きもされ、御自身がその御恩徳の中に浸っていつも喜びに浸っておられただろうと思うですね。
 だからそういう喜びに浸っておられるからです、全ての事が有難く受けられなさったのだろうと思う。
 皆さんが例えば、朝参りしてみえられる。例えばその夜のしじまをやぶって、いうなら白々と夜が明けてくる。そういう情景の中にです、もういよいよ天地の御恩徳、その情景に対して、合掌しなければならないものが生まれてくるでしょうが。
 それがそんなら暑かっても寒かっても、それが天地の御恩徳とわかったら、その暑い事に対して、寒い事にたいして合掌する心が生まれてくる。
 これを私、金光教的信心の情操だと思うですね。天地のお働きの素晴らしい事、それこそ天然の美じゃないけれどもです、空よりさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音といったようなね、そういう事の中に天然の美というか、天然の働きそのものを、まあ何と素晴らしい事であろうかと感ずる心なんです。
 それをそんなら暑い寒いもやはり天地の御恩徳なのですから、神様の御働きなのですから、その暑いも寒いもそういう頂き方が出来るという事がです、信心の情操。
 そういう情操を高めながらそういう情操をいよいよ深い密なるものにしてゆきながら、朝参りの表行が出来させてもらて、決して腹を立てんぞといったような、心行が出来るなら、この男性的ないうならば表行と、女性的なその心行とか一つになるのですから、そこからよいものが生まれてこないはずがない事になるのです。
 改まる事が男性的なら、本心の玉を磨くという事が女性的な信心だというような表現でも昨日は頂きました。
 改まるという事にはやはり、潔さがいるのです。だから男性的とこう呼ばれる。改まるという事にはもう、潔さがいるのです。
 心行というのるとそんなら文男さんが現在修行しとりますように、何とはなしに自分の心一つに黙って受けていくというような、例えば主人が外で一生懸命働いて来る 気分の悪い時もあっただろう。仕事中には、イライラもあったり腹の立つ事もあっただろうけれども、じっと抑えて帰ってくる。
 帰って来ると家内がそれをふわ-っと受けてくれる。私はそうだと思うですよ。そのふわ-っと受けてくれる事が心行なんです。その受ける事がどんな事であっても、それこそ、どんなに疲れて帰って来とっても家内のふわ-っとするような心で受けとめられると、もう疲れがとれたように思う。
 だから場合には、駄々っ子的なわがままもう言うたり、それこそ他所でらにらみつけられんから、家帰ってから家内なっとんにらみつけにゃと、言ったような事もあるけれども、ははあ、今日はお父さんがいよいよ疲れて来とるなという頂き方、どうしてそげんにらむの、私も一緒に頑張っとるよという生き方では、だからいけない。
 それでは心行にならない。女性的なと表現されたのも成程と思うです。例えば、その事柄ももって研いて行こうとする生き方が、本心の玉を研いていくという事がです自分の心の状態を、その為にお炊事場で天地の大恩をわかり、御恩徳をわからせて頂いて、それこそちょっとコックをひねれば水が出る。それこそコックをひねればお湯が出るというような恵まれた環境の中に生活させて頂いておる。
 その事がもう有難いとうてたまらんという過程の情勢がなからなけれは、主人ががばっと持って来たものを受けとめる事が出来ん。
 いわゆる金光教的信心の情操をいよいよ高めていく、深めていく、これが本心の玉を研く事なんです。その研く事と同時に例えばそんなら表今日させてもらう。それを今日は朝参りと皆さんに聞いて頂きました。
 人にものを言う通りに拝めとおっしゃる。拝むという事、もう信心にこの拝む事くらい素晴らしい事はないと思うですね。
 一心不乱に拝んでおるという事。御祈念の時間は眠ってよかごと思うとる人がありますもんね。もう親先生が一時間御祈念なさる。はあ、一時間は眠られるばいと、もう、こしごおしといびきかいて寝とる。これではね、本当の信心の有難さがわかってる人とは言えません。
 だからこれは私は、ひとつの方法論ですけどね、御祈念をする時には必ず合掌して自分の額ぐちとは指一本ぐらいしけとかなければ、いうならば汽車のレ-ルの中で御祈念しとるごたる気持で御祈念するならです、いつ汽車がゴ-ッと来るかわからん。 だからそのくらいな張りのある御祈念でなからなければ、今日私が言う御祈念の有難さというものはわからん。一生懸命、一心不乱に御祈念をする。もう願う事はいっぱい、お礼を申し上げる事もいっぱい。お詫びをしなければならない事は尚更多いというのですから、私共が段々信心させて頂いたらそうでしょうが。
 だからその御祈念の時に、そこのところのお詫びやらお礼やら申し上げるのですからもう限りがない。そこからね、限りない信心の喜びというものが感じられます。
 だからそういう意味で御祈念は大事になされなければいけません。それこそ、人にものを言う通りに拝めとおっしゃるのですから、人にものをいう通りにこまこまと神様にお礼を申し上げの、又はお願いをさせてもらう。お詫びをさせて頂くと。
 そこからね、そこからもうよい御祈念が出来た時の有難さというものがね、私共天地の大恩も、天地の大恩徳もそういう心で感得するんです。そういう心でキャッチしていくんです。だから元になるものは御祈念からです。
 とりわけそんなら朝の御祈念に、その清々しい雰囲気の中に一緒に御祈念させて頂く。もう大祓で奏上させてもらいよる時には、もう本当になあにもない、欲も得もない状態で大祓が上げられるなんて、本当に楽しい事ですよね。
 そういう私は、様々な角度から信心の有難いというものをわからしてもらい天地の中に満ち溢れておる満ち渡らせておるところの、神様の御働きを心に頂いて、有難いなあ、暑いも有難ければ、寒いも有難い。
 そういう心でです、今日私が申します表行心行、表行とは形の行、心行とは心での行その表行を今日は朝参りと、雨が降るから、風が吹くからえらいと思わずに、これが表行だ、私に出来たたった一つの表行だ、水かぶるる事もいらん、断食する事もいらん。これが表行、これは最高の表行です。
 だからその表行をひとつ貫かせて頂こう。しかもそれが有難うなろう、楽しゅうなろう。そして心行です、いわゆる和賀心時代をつくるという、和賀心、和賀心という例えば文男先生達の場合不平を言わんですむとか、腹を立てんですむ。その心こそ和賀心だと思うのです。
 そんならある事は、いろんな事がある。腹の立つような、ムカッとするような事もある。痛い思いをする事もあるけれどもです、それを例えば受けていくという事が心行だと思うたら、それを結局、不平不満を言わずにいわば、腹を立てんですむ修行をさせて頂く修行を今日は心行だと今日は聞いて頂いたですね。
 だからその表行心行を、ピタッリ頂きとめていく為に例えば御祈念の有難さをあじわえとこう申しましたね。
 その御祈念の有難さ、そのあじわいをもって、天地の大恩、天地の御恩徳、もうそれこそ私共の周囲に満ちわたらせられておるところの神様の御働きを、そういう心でキャッチしていく。それをお道でいう信心の情操とはそういうふうな事だと聞いて頂きましたですね。
    どうぞ。